BBCが保管しているワトスン博士の未発表手記をここに公開する。
その夜、部屋で夕食を済ませると、ホームズと私はくつろいだ気分でパイプをくゆらせながら、
おのおの黙想に耽っていた。
「“バリツ”だよ、ワトスン」
ホームズが突然口を開いた。
「なんだって!? いや、どうしてわかったんだい!?」
私は驚いて尋ねた。たしかに私はその時、ホームズが体得していたという日本の格闘術の
名前が思い出せずに記憶をひねっていたところだった。
「観察と推理だよ」
ホームズはこともなげに言った。
「君の表情の変化を見ていればわかる。まず君の目は大きく見開かれ、次に安心した表情に
なった。その表情の変化を見るのは二度目だ。ライヘンバッハの滝で死んだはずの僕が、ベー
カー街に舞い戻って君を失神させた時、意識を取り戻した後の君の顔がまさにそれだった。
それで僕は、我が友は今、あの時のことを思い出しているのだなと悟った。それからすぐに、
君の顔には困惑の様子が浮かんだ。何かが思い出せず、もどかしくて仕方ないという表情だ。
あの衝撃的な出来事の中で思い出せないことがあるとすれば、馴染みのない日本語“バリツ”
に違いない」
「まさにその通りだよ。いつもながら君には驚かされるよ」
私は言った。
「そうだホームズ、あの時は動転していて聞きそびれたんだがね、どうして君は日本の格闘術
を身につけるに至ったんだね。君が日本に行ったことがあるとは聞いたことがないが」
「その通り、僕は日本に行ったことはないよ。バリツは大学生の時、ここロンドンで覚えたのさ」
ホームズが答える。
「その顛末をぜひとも聞きたいものだね」
「いいとも。あれは−」
ホームズの目が遠くなっていった。
ある晩のことだ。気晴らしに出かけたパブからの帰り道、路上に人だかりが出来ているのを
見かけた。近寄ってみると、取り囲む野次馬の輪の中で、男たちが闘っていた。
四人の水夫が、一人の東洋人に掴みかかっているんだよ。水夫は皆、屈強だったが、東洋
人も体格では彼らに負けていない。それどころか、四人がかりで押されようが引かれようが、
岩のようにビクともしない。そして、東洋人は軽々と水夫たちを投げ飛ばしていくじゃないか。
一見、グレコローマン・レスリングのようなのだが、相手の腰のベルトを掴んでコントロール
していることに、見ていて気づいた。
東洋人は、地面に倒れた水夫たちに手を差し伸べて立ち上がらせてやると、信じられない
といった表情の彼らから小銭を受け取って、うやうやしく懐にしまった。
そこへ、警官が警笛を鳴らして走り寄ってきた。水夫たちは「お前も逃げろ」と言って走り去
った。東洋人はきょとんと立ち尽くしているものだから、僕は思わず彼の手を取って、路地裏
に駆け出していたよ。
その東洋人は、日本から来たと話した。残念ながら、彼の名前は忘れてしまった。正確に
言えば、覚えられなかったのだ。日本語の発音は難しいし、何やら長い名前だったからね。
ともかく彼は、修行のために世界を旅していたそうだ。行く先々で、力自慢の男たちと賭け
勝負をして渡航費用を稼いでいるという。
それで僕は、次の日から彼を大学に連れて行き、レスリング部、ボクシング部、ラグビー部
と廻って、主将から補欠に至るまで、片っ端から闘わせた。彼は連戦連勝を重ね、相当額の
賭け金を手に入れることができた。
彼は相当感激した様子で、是非とも僕にお礼をさせてくれと言うものだから、僕は彼の使う
格闘術の一端を教えてもらうことにしたのだよ。
「それが“バリツ”との出会いだったわけだね」
「ウム。実のところ、“バリツ”というのは、僕が便宜上つけた名前なんだ」
「どういうことだい?」
「彼の名前同様、その格闘術の名前も聞いたのだが、どうにも覚えられなかったのだ。
たしか、“煙”(smoke)がどうとか・・・ 」
「じゃあ、“バリツ”という名前は・・・?」
「彼がロンドンから旅立つ時、僕に書き付けをくれたんだ」
ホームズは本棚の奥をガサゴソと漁ると、箱の中から一枚の紙を私に手渡した。
「そうじゃない、ワトスン。縦だよ。縦にして読むんだ」
「それは珍しいね・・・」
実際、文字そのものも珍しかった。何やら象形文字のような複雑な記号だ。
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