日本への帰国を目前にして、散らかり放題の下宿の片づけに四苦八苦している最中、
私はバリツの師匠であるBBC長老、マーマデューク・ウェザラル卿から呼び出された。
「やれやれ、また下手くそなチェスの相手をさせられるのか・・・」とボヤキながら、卿の
邸宅を訪ねると、真っ直ぐ書斎に通された。
「忙しいところすまんな、テディ(私の名前「テツヤ」が発音しづらいらしく、卿はこう呼ぶ)。
紅茶は話が終わってから持ってこさせよう。万が一こぼされたりしたらかなわんからな」
 そう言うと、卿は箱の中から取り出した一枚の紙を、慎重な手つきで私に渡した。
「なんです、これは?」
 随分と古い紙だ。和紙だろうか。漢字が二文字書かれている。
「説明は後だ。まず、その文字は何と読むね?」


謎の文字

「・・・バ、リツ・・・ですかね」
 私は唸った。
「やはりな・・・」
 卿は、椅子に深く腰掛け直し、天井を仰いだ。
「これは一体・・・?」
「最近、グレート・マスターの書庫から新たに見つかったものだ」
「シャーロック・ホームズ氏の・・・!?」
「その紙が入っていた封筒に、マスターの筆跡で“Baritsu”と書かれておってな」
「それで、師匠のところへ送られてきた、と」
「ウム。で、その“カンジ”の意味するところは何だ、テディ?」

は、一般的に使う文字ではありませんね。右側のパーツは音を表していることが

多いので“バ”と読めました。単純に考えれば、動物の馬という意味ですが、この場合、
文字通り「馬」絡みとは限りません。 ただ、左側のパーツから、 神や神事に関係して
いるものと推測できますが、これ以上は辞書を調べないと・・・。
それから、律の方は、ルールやロウ、レギュレーションといった意味だと思います」

 私は、規律、法律、戒律といった言葉を思い浮かべて説明した。それにしても、

とは一体どういう意味であろうか。

「フゥ・・・どうやら、大変なものを見つけてしまったようだな」
「と、おっしゃいますと・・・?」
 その意味するところは薄々わかってはいたが、私は敢えて訊ねた。
「おそらくこれは、真の名称・・・であろうな、“バリツ”の」
 卿は顎鬚をさすりながら答えた。
「しかし、“バリツ”の語源は、マスター・ホームズが、“転バず競リ勝ツ”という書き
付けからカタカナ部分を拾い読みしたものだと・・・」
「君は、あのワトスン博士の手記の内容を信じておるのかね」
 卿の目が鋭く光った。
「・・・!! でも、あれは博士の直筆だと鑑定されたのでしょう?」
「確かにそうだ。だが、あの頭脳明晰なグレート・マスターが、“スモウ”というたった
二音節の名称も憶えられなかったなどと・・・おかしいとは思わんかね」
「それは、僕もまるで冗談のような話だと感じてはいましたが・・・。では、あの手記
の内容は作り話だった、と?」
「ワトスン博士が嘘を書いたとは思わん。だが、マスターが博士を欺くために作り話
を吹き込んだということはあり得る」
「何のためにそんなことを? 博士はマスターの親友でしょうに」
「考えてもみたまえ、テディ。ワトスン博士は手記という形でマスターの行動を逐一
世間に公表していたのだぞ。当然、マスターにしてみれば、他人に知られたくない
話とて多々あったであろう」
「その一つが、このバリツの・・・“語源”だった、ということですか?」
「そういうことだ。欺かれていたのは、ワトスン博士だけではないのかもしれぬ」
「我々、弟子たちも・・・ですか?」
 卿はこわばった表情で頷いた。

 卿は、件の紙をしまうと、紅茶を運ばせ、葉巻に火をつけた。
「帰国次第、あの文字の解読をしてもらいたい」
「それは、もちろん」
「くれぐれも慎重にな。バリツの存在を根幹から揺るがす結果となるやもしれん。
あの紙の存在を知っている評議会のメンバーは、私と君だけだ。あれを発見した
財団の人間にも、堅く口止めしておる」
「わかりました・・・」

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